2015年5月16日土曜日

「エモーショナル・プログラム」は、このような「気分という感性」と「商品という品性」の「間」の象徴作用を、ゾーンやベクトルやツリーによって表示したものである。松岡正剛

「エモーショナル・プログラム」という概念を考えたのは、もう35年前になる。それまでブランドの相関性を示すツールが無かったので自分で作った。セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング(STP)はコトラーでさえ1000ページにも及ぶ「コトラー&ケラーのマーケティング・マネジメント」のなかでSTPに関しては35ページしか割いていない。

















その35ページのパートだけを拡張したのが「エモーショナル・プログラム」だ。以下はその「エモーショナル・プログラム」の序文に書いて頂いた松岡正剛さんの文章だ。

われわれは街に出て、いつも自分の個性や生活にあうものを探している。また、おびただしい数のメーカーや職人は、どんなユーザーが自分たちのつくった製品や商品を買ってくれるかを一喜一憂している。しかし、ユーザーとメーカーの「間」には多くの壁や溝やズレがあって、両者の意図がつねに重なるとはかぎらない。

















そこで店舗設計・ディスプレー・宣伝・広報などがその「間」をなんとか縮めようとして、苦心惨憺をする。それでも流行は激しく変化する。けれども、あらためてよく考えてみると、欲望と生活は敵対などしていないはずなのである。

すでにウェルナー・ゾンバルトが『恋愛と贅沢と資本主義』で克明に論証したように、女性のプチ・ロマネスクな贅沢へのおもいからヨーロッパの資本主義の基礎が生まれていったのであって、先に消費者からお金をまきあげる資本家がいたわけでもなく、先に靴下やガーゼ下着の工場があったわけではなかった。

もともと身体にひそむエモーショナルな動向が、外に向かって形をなしたものが道具や製品や商品なのである。水をすくう手の形からスプーンが生まれ、青空を見たいという気持ちから空色のカーテンがつくられ(初期のカーテンは空色と花園模様だった)、森に入る気分のために木靴が革や布に代わり、その子供用を工夫しているうちにスニーカーが生まれていった。

















だから、人間の心や気分の奥にあるものと製品や商品は、本来は深く直結しているものなのだ。ところが、そこに大きな事態の変化がおきたのである。それはユーザーとメーカーの「間」に市場(マーケット)というものが登場し、その市場そのものが都市生活や農村生活の半分とまではいわないものの、大きな位置を占めるようになったからだった。

また、市場は別途、金融市場という人間の気分や商品とまったく関係のないメカニズムとも融合してしまった。こうして市場は膨れに膨れあがって、市場を制する者が商品競争を制することになってしまったのである。

市場が甚だしく熟成したために、もうひとつ大きな変化がおこった。それは世の中の商品、とりわけブランドがわれわれの感性や気分を代行しはじめたということだ。ユーザーは自分の好みや気分のほんとうの姿がわからないままに、市場に並ぶブランドによって自分の好みを当てるようになったわけである。

これはブランドが多様で、そこに人間の個性や気分に見合った分の微妙な襞が反映しているときはともかく、必ずしもその対応関係が釣合いをとらないときも多く、こういうときはユーザーとブランドの関係そのものが固定化してしまって、市場すら冷えるという予測もつかない動向を生み出したのである。

そこで、ふたたびユーザーとメーカーの「間」をできるかぎり直截につなげる考え方が必要になってきた。いいかえれば「こころ」と「もの」とを、「気分という感性」と「商品という品性」とをうまく重ね合わせることができる考え方が待望されるようになったのである。坂井直樹の「エモーショナル・プログラム」はそのような期待に応えて、さまざまな実践と計画の準備と滋養を背景に組み立てられた。

















私は、この「エモーショナル・プログラム」を見て、これは感性と商品の「間」に象徴作用というものをおいた仕組みだということに感心した。われわれには、言葉であれ色であれ形であれ便利な機能であれ、それらがもっているなんらかの特性を絶えず象徴化しようとする傾向がある。逆に商品はその象徴性をつねに記号化するという傾向をもつ。この象徴作用が崩れると、ユーザーは戸惑い、メーカーは方針を誤る。

すなわち、象徴作用というものはつねにユーザーに対してもメーカーに対しても相互的でなければならないのである。また、さまざまな「言いかえ」や「見立て」や「乗りかえ」が可能になっていなければならない。

人間の欲望というものは、つねに自分にふさわしい商品を手元におきたいという衝動をもっているけれど、その商品が自分の気分を固定してしまうことを惧れるものなのだ。そこで、多くの人間は、絶えず自分の気分を「言いかえ」たくなり、もっと別なものに自分を「見立て」たくなり、できれば「乗りかえ」もしたいと思っている。また、メーカーはそのようなユーザーの変身や変更の度合を予測してみたい。

坂井直樹の「エモーショナル・プログラム」は、このような「気分という感性」と「商品という品性」の「間」の象徴作用を、ゾーンやベクトルやツリーによって表示したものである。何かが市場を変えるにちがいない。


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