2011年8月5日金曜日

美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあるという「陰翳礼賛」。

3.11以降、一番身近に起こった変化は、節電で至る所で夜間の照明が暗くなったことだろう。松下電器が明るいナショナルと言い始めて半世紀が経った。これは、新しい文明としての良い面もあったのだが、それまであった、雪見障子やフロワーライトなどの日本の間接照明の文化を消し去った文明でもあった。谷崎潤一郎の陰翳礼賛の世界を再度読んでみると良い。光があるから陰がある。『陰翳礼賛』は時代を超えて、今やプロダクトデザイナーの愛読書だ。しかも『陰翳礼賛』は海外で一番読まれている日本の本のひとつだ。
二条城 「陰翳礼讃・龍の間」
太陽の光の中で「蒔絵や漆器」を見たらケバケバしくて浅はかで美しくないという表現もある。「漆器の美しさは闇を条件に入れなければ考えられない。派手な蒔絵などを施したピカピカ光る「蠟塗りの手箱」などは、ケバケバしくて落ち着きがないが、それらを闇の中の一点の燈明か蝋燭の明かりで見ると底深く沈んで、渋い、重々しいモノになる。」と確か書かれている。暗いところで見るからこそケバケバしいものも美しく見える。っていう谷崎独特の美意識がある。

深澤直人さんも「陰翳礼賛」の書評を書いていた、その一部を下記に転載する。
確かに、現代に生きるわれわれは暗闇のなかの深さを知らない。暗さは「暗い」だけで奥がない。目が暗さに慣れるまでの時間を体験できない。明るさのなかの視覚情報は備わった身体の他のセンサーの感度を鈍らせてしまっている。「われわれ東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである。(中略)われわれの思索のしかたはとかくそう云う風であって、美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰 翳の作用を離れて美はないと思う」。(本文より)明るさを得たことによって失った美の領域。谷崎がこれを出版したのが昭和8年(1933年)だから、陰翳の美の領域を失いかけていたその時代からすでに 70年程経っていることになる。建物、部屋、建具、庭、着物、肌、飾り、食べ物、紙、あらゆるものが陰翳のなかで放つ美を書き記したこの本は、われわれが もう体験することのできない欠落した領域を示している。
本文は、http://bit.ly/egO1qw

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